正直ノオト






  三年生は夏休みでもおいそれと休めないみたいです。
 僕は真夏の日差しの中、校門をくぐった。
 受験生にはこの夏が勝負らしい。僕もいちおう進学組なので夏期講習のた
めに足繁く学校に通っている。
 真っ昼間の太陽は本当に容赦がない。じりじりと照り付ける。
 今日は午後一番から数学、続いて英語の講習があった。それにしても暑い。
汗がにじんでシャツと背中が引っ付いて気持ち悪い。少しでも日陰を求めて並
木の下を歩くと、今度は蝉の鳴き声がうるさい。
「あついんですけどおおおお」
 あまりの暑さに僕は耐え切れず大声で嘆いてみた。その声は蝉に掻き消さ
れてしまう。それどころか、鳴き声は張り合うように一層ひどくなった気がする。
 僕は切れた。
「アイス食べたいぃ」
「てか数学だるいしぃぃぃ」
「英語もだるいしぃぃぃぃぃ」
「やる気ないしいぃぃぃぃぃぃ」
 受験の日頃の鬱憤を晴らすべく、大いに叫んでやる。夏休みだというのに勉
強漬けの毎日に僕だってストレスがたまる。真面目だけが取り得みたいに言
われますけど、やる気がない時ぐらいあります。ていうかね。
「これって誰かに変な影響受けたせいだあ」
 僕の担任教師はとても無気力な人間だ。きっとあの人のせいだ。今頃うちで
熟睡しているあの人が僕に悪影響を及ぼしている。そうに違いない。そうに決
まってる。
 夏休みに突入して11日。僕は先生と会っていない。
 別に不平不満を言うつもりはない。僕は受験生で、遊んでる暇の無い身だ。
それに向うは教師だ。僕は自分の立場をよく分かってる。
「にしても暑い」
 僕は額に滲んだ汗を乱暴にシャツの袖で拭った。ため息まで熱くて嫌気が差
した。
 蝉は迫り来るほどの迫力で鳴き続ける。たったひと夏しかないんだから当た
り前かもしれない。僕も受験生で、この夏はたった一度きりだ。
「先生のあほオオオオオオ」
 声は蝉の鳴き声が掻き消してくれる。僕は声を張り上げた。慣れない声を出
したせいでゲホゲホと咽込んでしまった。まったく僕はいつも格好がつかない。
息を整えて何事もなかったように歩き出そうとすると、どこからか拍手が聞こえ
た。やる気のないだらしない拍手だ。きょろきょろを辺りを見回すと、廊下の窓
から銀八先生がこちらを覗いていた。窓枠に両手をついてニヤニヤ笑って見
ている。
 先生は僕と目が合うとひらひらと手を振った。僕は思わず周りを確認する。
誰もいない。ほっしながらおずおずと近寄ると先生は「よお」と片手を挙げた。
「おはようございます」
 僕はぺこりと頭を下げて挨拶をした。
「もう昼だぞ。志村くん」
 先生の突っ込みに一瞬うっと詰まり、その後「こんにちは」と言い直した。そん
な僕を先生はぷっと吹き出して笑った。さすがにムッとして睨みつけると、先生
は「悪い、悪い」と笑いを治める。
「何かお前の顔見るのも久しぶりだなあ」
「あの」
「何だあ」
「いつから見てたんですか」
 僕は俯き加減で聞いた。正直あの痴態を見られていたとあればかなり恥ず
かしい。
「ああ、何かアイス食べたいって吠えてたところ? 廊下歩いてたら外から聞こ
えてきたからよ、何事かと思えば志村くんじゃないですか」
 つまり最初から見られていた訳だな。
「声掛けて下さいよ」
 僕は不満を漏らした。
「いやあ悪い悪い。面白かったからつい観察してしまった」
「ああそう」
 素っ気無い返事をする。
 先生はふうっと息をついて、窓から僕に手を伸ばした。そして宥めるように僕
の頭を軽く撫でた。
「……人に見られたらどうするんですか」
 僕は棒のように突っ立ったまま呟いた。
「それはまあマズいなあ」
 そう言いながら、先生は僕の頭をぐりぐりと乱暴に撫でた。お陰で髪はぼさぼ
さだ。僕は先生から逃れ、両手で髪を撫で付けて整えた。
「まずいならやめて下さいよ」
「傍から見たらこんなの教師と生徒のただのスキンシップだよ。お前気にしすぎ
だって。ほんと生真面目だなあ」
「真面目だけがとりえですから」
 僕は後ろに一歩後退りした。それにしても蝉の声がうるさくて苛々する。
「新八くん。ちょっとこっち」
 先生は手招きをした。僕は「いやです」と更に一歩後ろに下がった。すると先
生はがしがし頭を掻いてから、窓枠に手をついて外に身を乗り出した。驚く僕
の手を力強く掴むと、強引に引っ張った。
 僕を近くまで引き寄せると、先生は窓から廊下に降りた。
「やっぱさあ11日も会わねえと物足りないよなあ」
 先生は大人だ。普段ぜったいそういうことを言わないのに、不意にごく自然に
そういうことを言う。思いつきのようでいて実にタイミングが良い。
「暑いし」
「暑いよなあ」
「数学嫌いだし」
「ああ、数学は俺も嫌いだな」
「英語も嫌いだし」
「ああ、英語なあ。海外旅行なんか一生しねえから英語いらねえってな」
「ていうか勉強なんて本当は嫌いだし。おまけにやる気もないし」
「まあ俺は四六時中無気力だけどな」
「――真面目に言ってます」
「真面目に聞いてるぞ」
 僕は拳を握って先生を見た。先生は窓枠に両手をついて自分の頬を支える
ようにして僕を見ていた。
 先生と生徒の交際は当たり前だが周囲に知れるとまずいことだらけだ。だか
らこっそりと付き合っている。夏休みになると会えなくなっても仕方ない。容易く
会える環境じゃない上に僕は受験生で遊んでいる状況にない。
 そんなことは交際が始まる前に重々分かっていたことだ。僕はそれを承知し
た上で先生と付き合った。好きだったからだ。この付き合い方に不満を持つの
は違う。これぐらいの我慢がきかないでどうするよ。
 そう思うのに。
「早く卒業したい」
 僕は言った。
「そうだなあ」
「学生って不便です」
 周囲のことなんか気にせず普通に会えるように早くなりたい。僕は学生で先
生は教師だ。何度も自分に言い聞かせてきた。だから仕方ないって。さみしく
ても仕方ないって。
「仕方ないんですけど。わかってんですけど」
 自分の心だというのに儘ならないのが歯がゆいです。
「確かに仕方ない。が、さみしいよなあ。やっぱ」
「先生もそんなこと思ってんですか?」
 僕が疑惑の眼差しを向けると先生は苦笑した。
「思うって。なあ、新八。我慢はよくない」
「はい」
「無理もよくない」
「はい」
(ちゃんと勉強してちゃんと卒業しよう)
 僕はへへっと笑った。
 すると、今度遠出でもするかあ、先生はそう言った。






20070914









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