犬を飼う。





 それは秋晴れの夕空の下での出来事だ。


 今日は朝から晴天だった。洗濯物を干し、三人分の布団もベランダに干し終
えると、すぐさま昼餉の準備に取り掛かった。
 銀時と神楽は食事を済ませるとふらりと出掛けていった。
 後片付けをして、掃除機を掛ける。
 気付くと日が西に傾きかけていた。布団を取り込む。ふかふかの布団に思わ
ずごろりと横になった。暖かい。新八は布団に顔を埋めて思い切り空気を吸い
込んだ。太陽の匂いがする。少しだけ、そう自分に言い聞かせて目を閉じた。
 眩しさに目を覚ますと、西日が窓から差し込んでいる。時計を見るとすでに夕
餉の時間だ。慌てて洗濯物を取り込み、夕餉の買い物に出た。
 近所のスーパーで手早く買い物を済ませると、家路を急いだ。
(遅くなっちゃったな)
 街灯の灯り始めた歓楽街を足早に進む。
 人通りの多い往来を歩いていると、何となく気配を感じた。気のせいだろうと
思いながらも心持ち歩くスピードを速めてみる。しかし気配は一定の距離を保
ちながらついてきているように感じる。
 足を止め、思い切って振り返った。
 新八に気を止める通行人は誰もいない。
 少し首を傾げながらも、やはり気のせいかと思い直し歩き出そうとした。その
時である。足元でワンと犬の鳴き声がした。
「うわっ」
 不意をつかれて思わず飛び上がる。
 見ると子犬がいた。
 千切れんばかりに尻尾を振りながらこっちを見ている。
「い、いぬ?ああ、びっくりした」
 胸を撫で下ろすと、その場にしゃがみこんだ。
 子犬は袴の裾をくいくいと引っ張る。
「おい、やめろって」
 赤い首輪をしている。飼い犬だ。キョロキョロと辺りを見回すが、飼い主らしき
人物はいない。
「お前どこの子だ?」
 その小さな頭をそっと撫で付ける。柔らかい毛の感触に、新八は微笑んだ。
そっと手を差し伸べて抱き上げると、子犬は大人しく腕の中に納まった。
(慣れてるなあ。迷い犬かな)
 立ち上がり、再度周囲を見渡してみる。
「困ったなあ」
 呟いて、子犬に視線を移す。目が合うとワンと甲高い声で鳴いた。
「だめだめだめだめっ」
 新八は自分に言い聞かせるように首を横に振る。潤んだ黒目勝ちの視線
に、ぎゅっと目を瞑った。腕の中の生き物はとても温かい。
「怒られるよ、なあ…」
 情けない声を発する。すると子犬が急に動き出した。腕の中から這い出るよ
うに顔を出す。そしてぺろぺろと顔中を嘗め回された。
 駄目だって。うちは貧乏なんだ。余裕なんかないんだ。
 いつの間にか辺りはすっかり暗くなっていた。日は完全に落ちている。煌々と
ネオンの点る中、新八は途方に暮れた。



 万事屋に戻ると、すでに銀時と神楽は帰っていた。銀時は腕の中の子犬を
見止めると、あからさまに眉を顰めた。
 夕餉の準備に取り掛ろうと、一直線に台所へ向おうとした。本音を言えば銀
時と顔を合わせなくなかった。
 ショックだった。
 あんなにあからさまに嫌な表情をされると思わなかった。台所に向うには銀
時のいる事務所を兼ねた居間を横切らなければいけない。そそくさと銀時の背
後を通り過ぎようとすると、「ちょっと」と呼び止められた。
 銀時はソファーに胡坐を掻いて、こちらを振り返った。暗に座れと迫られて、
仕方なく子犬を抱えたまま向いのソファーに腰掛ける。
 「その犬はなんだ?」と憮然とした態度で問われ、仕方なく事の経緯を説明す
る。
「――で、結局連れ帰ってるとはコレいかに?」
「す、すみません。でも」
「でも何だ?」
 説明を一通り聞き終えると、銀時は徐に口を開いた。
「飼い主が見つかるまでだけ飼えないですか?餌だって僕のご飯を分けます
し、勿論世話も全部します。銀さんには極力迷惑掛けませんから」
 必死に訴える。子犬は自分の立場をわきまえているのか、ジッとしている。聡
い子だ。新八はますます必死に頼み込んだ。
「お願いします。銀さんには絶対迷惑掛けません。この通りです!」
 子犬を膝の上に乗せて両手を合わせた。自由になった子犬はソファーから
ずり落ちる様に床に降りると、まだ少し拙い足取りで歩き出した。
「あっ」
「いいから。話は終わってねえ」
 新八は子犬を捕まえようと腰を浮かせたが、銀時に制止された。
「飯とか世話とかそういう問題じゃねえだろう」
「じゃあ、あの、どういう問題ですか?……それに定春はよくて何で子犬は駄目
なんですか?」
 半ば睨みつけるように尋ねる。銀時は腕を組みながら嘆息を漏らした。ぐし
ゃりと頭を掻き毟る。
「もし飼い主が見つからなかったらお前どうするつもりだ?」
「……それは」
 返答に窮し、俯いた。
「元の場所に返してこい」
 存外に強い口調だった。しかし怯んでいる場合じゃなかった。新八はぎっと銀
時を見つめる。
「嫌です。僕には見捨てるなんて出来ません。無理なら実家に帰って飼います」
 賭けだった。姉、妙はシビアである。捨てて来いと言われるのは明白だった。
現に幼少の頃、捨て犬を拾ってきた事があったが、問答無用で捨てろと命令さ
れた。あの時は泣きながら、元の場所に返しに行ったのを覚えている。
 まんじりとしていると、先に折れたのは銀時だった。大仰に溜息を吐く。
「――俺は知らねえからな」
 銀時はソファーの肘掛に頬杖をついてそっぽを向いた。面白くなさそうに口を
尖らせている。
「…あ、ありがとうございますっ!!」
(やった!)
 ほっと胸を撫で下ろす。
「交渉成立か?」
 いつの間にか神楽が背後に立っている。子犬を抱えていた。子犬はすやす
やと寝息を立てて眠っている。
「神楽ちゃんにも迷惑掛けないからよろしくね」
「どっちでもいいけど、新八、ハラヘッタよ。餓死させる気か?」
 神楽が淡々と言う。
「ああ、ごめん。急いでご飯の支度するね」
 パタパタと台所へと入っていく。



 その日から子犬の世話が始まった。
 ダンボール箱に新聞紙を敷き詰め、その上にいらないタオルを敷いた。それ
を自室の一角に置き、そこを子犬のねぐらにした。
 翌朝、子犬の忙しない鼻息で目が覚めた。寝ぼけ眼で、散歩に出掛ける。河
川敷で子犬に排泄を済まさせて、しばらく遊ばせる。新八は土手に腰掛て欠伸
をしながら、しばらくそれを眺めた。子犬は一頻り遊びまわると、満足したよう
に新八の元へと戻ってきた。頭を撫でて、万事屋に帰宅する。
 人肌に温めた牛乳をやり、今度は朝餉の準備に取り掛かった。
「みんなー、朝ですよーー」
 テーブルに料理を並べていると、神楽がやってきた。しばらくして銀時もやっ
てくる。二人とも寝起きが悪い。まだ夢心地のまま、白飯を口に運んでいる。
 毎朝の光景ながらも新八は苦笑しながら味噌汁を啜る。不意に足元でくんく
んと鳴き声がした。
 子犬は新八を見上げながら甘えるように鳴いている。甘いたい盛りなんだろ
う。
「ちょっと待ってるんだぞ」
 新八は急いで朝餉を平らげる。
「お前さー」
 うつらうつらしていた筈の銀時が呟いた。見ると、冷ややかな視線にぶつか
る。
「何ですか?」
「いや、何でもねえ。ご馳走さん」
 思わず身構えたが、銀時は言おうとした言葉を飲み込んで立ち上がった。
「出掛けてくるわ」と言い残し、部屋を後にする。
「何だよ。銀さんのやつ」
「……眼鏡は子供アルなあ」
 黙々と食事を勧めていた神楽が口を開く。
「どういう意味?」
 眉尻を上げて神楽を見た。聞き捨てならない台詞である。
「どうもこうもそのままの意味だヨ。ご馳走サマ」
「あ、ちょっとっ」
「出掛けてくるアル」
 神楽は話もそこそこに出て行ってしまった。
「何だよ。神楽ちゃんまで…」
 独り取り残されて、ぼやく。足元の子犬を抱き上げて、頬を擦り付ける。くすぐ
ったい。
 その日、銀時と神楽は昼になっても戻ってこなかった。
 夕方、子犬の散歩を済ませ、夕餉の支度をしていると銀時と神楽は一緒に
帰ってきた。「腹減った」と普段どおりの表情だ。
 しかし夕餉を済ませると銀時はさっさと自室に引っ込んでしまった。
(もう何だよ)



 それから一週間ほど銀時とは冷戦のような日が続いた。まともに会話をして
いない。最初は戸惑っていたが、段々可笑しな意地が出てきた。銀時はやはり
昼前にはふらりと出掛けて夕方まで帰ってこない。
 神楽は神楽で勝手気ままな態度で何を考えているのか分からない。
 昼下がり、誰もいない部屋でふうっと息を吐いた。ソファーに腰掛け、ぼんや
りしていると子犬が傍に寄ってきた。そっとかかえ上げて抱きしめる。
「そうだ…お前に名前付けなきゃなあ」
 何がいいかなと独り言ちた。
 本当は早く飼い主を見つけないといけない。それは分かっている。
 新八はソファーにごろんと横になった。子犬は苦しそうに腕の中から這い出
ると、ワンワンと数回鳴いた。尻尾を振りながら頭の周りでくるくる回った後、床
に降りて行ってしまった。
 目を閉じると睡魔がやってきた。ここの所明け方には起こされ、朝ぼらけの
中を子犬を散歩させてから家事に従事する日々。
 幸い(いや、万事屋にとっては死活問題なのだが)依頼が舞い込んでいない
のがせめてもの救いか。
「今晩は何にしようかな…」
(カレーにしようかな)
 うとうとしながら考える。
 銀さんはカレーが好物だ。何であんなに子犬を飼うことに頑ななんだろう。犬
が嫌いな訳じゃないと思うのに。
 初めて子犬を連れてきた日のことを思い出す。
 顔を顰めて、心底迷惑そうだった。
「銀さんのアホ…」


 ワンと元気の良い一声で目が覚めた。
 横になったまま、窓を見ると空は橙色に染まっている。随分眠ってしまったら
しい。慌てて起き上がろうとするが、足音が聞こえて咄嗟に寝たフリを決め込
んでしまった。
「おい。コラ。静かにしろ」
 銀時の声だ。
 子犬は尚も嬉しそうな声で吠えている。
「分かった。分かったから」
 銀時はガサガサと物音を立てながら、子犬を軽くたしなめた。
「おお、あった。おい、大人しくしてろ」
 しばらくするとバタンと扉が閉まる音が聞こえた。静かになってからそろそろと
体を起こすと銀時と子犬がいない。見ると手綱もなくなっている。
 まさか強行手段に出たんじゃ――。
 新八は慌てて外に出た。
 薄紫色に染まる空の下を走り回る。河川敷までやってきて、銀時と子犬の姿
を見止めた。
 ホッとしてその場に立ち尽くす。
 銀時は土手に寝そべっていた。子犬はその周りではしゃぎ回っている。
 息を整えながらゆっくりと銀時に近づいた。
「銀さん」
「ああ?お前か」
 背後から声を掛けると、銀時は鷹揚な態度で振り返った。無言で隣に座る。
 しばらく沈黙が流れた。
 不意に子犬が銀時にじゃれ付いてくる。顎の下をそっと撫でてやっている。穏
やかな表情だ。
「ねえ、どうしてあんなに反対したんですか」
「……」
「ねえ」
 中々口を開こうとしない銀時を覗き込んだ。銀時は顔を背けた。
「小さい生き物は駄目だ。絶対に先に死ぬからな」
「銀さん」
「そんなに情を掛けると後で泣くのはお前なんだぞ」
 そう言って銀時は懐から紙片を取り出した。そしてそれを新八に握らせる。
「な、何ですか」
 見ると見知らぬ名前と住所が書き記されていた。銀時はがばっと起き上が
る。
「こいつの飼い主だ。返しにいってやれ」
「――も、もしかしすると毎日出歩いてたのはこの為ですか?」
 銀時は返事をしなかった。その代わり「行くぞ」と言って手を差し出す。新八は
子犬を抱き上げると、差し出された手を握り、立ち上った。
「銀さんも泣きますか」
 とぼとぼ歩きながらぽつりと尋ねた。
「さあな。でもな大事なもんほど奪われていくからな。これ以上色んなもん背負
ってたらしんどいよ」
「僕らはいなくなりませんよ?」
 そう告げると銀時はカカカと笑い、頭を撫でた。
「俺はそれでもお前や神楽がこわい」
「こわい、ですか?」
「銀さん。ごめんなさい。それとありがとうございます」
 夕闇に紛れて銀時の表情を窺い知ることは出来なかった。それでも無性に
堪らない気持ちになる。
「バーカ。野郎の泣き顔なんて汚いだけだろーが」
「銀さん」
「ん?」
「今晩はカレーにしましょうか」


 翌日、渋る銀時を引き連れて子犬を返しに行った。子犬は飼い主の家に近
づくと、新八の腕から飛び降りて走り出した。
「やっぱり飼い主さんが一番なんですねえ」
「当たり前だ。自分の家が一番いいに決まってる」
「ですよね」
 しんみりすると、銀時は大きな欠伸をした。
 飼い主にはこちらが恐縮するほど礼を告げられた。その間も銀時は興味が
なさそうにぼんやりと突っ立っているだけだった。
「帰るぞ」
 名残惜しそうにしていると銀時は踵を返した。すたすたを歩き出したその後ろ
を新八は急いでついていく。
「これ以上世話の掛かるヤツが増えたら身が持たねーっての」
「ちょっと。世話の掛かる大人はどっちですか」
 背伸びをして銀時の耳を引っ張った。
「イテテテ。スミマセンスミマセン。それは俺です」
「分かっていればいいんです」
 不意に後ろを振り返る。短い間だった。けれど腕の中に眠る小さな命。その
寝息を思い出すと切ないような温かいような気持ちが胸中に広がる。
 情を掛ければその分泣くのは自分なんだと銀時は言った。
 銀さんははじめから分かっていたんだな。こうなることを。
「ホラ。帰るぞ」
 ぎゅっと手首を引っ張られた。
「あ、はい」
 銀時は手首を掴んだままスタスタ歩き出した。掴まれた手が痛い。
「銀さん痛いです」
 銀時の背中に抗議をすると、立ち止まってくれた。
 くるっと振り返ると今度は手を握って歩き出した。手を繋ぎながら万事屋まで
の帰路を歩く。








20061022











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