秘密






「忘れてたあ」
 僕は絶望した。
 だけど呟きは弱弱しく、蝉の鳴き声にかき消されてしまった。
 図書室の扉に張り紙がしてある。紙には「8月11日から15日まで蔵書整理の
ため使用禁止」と太い文字で記載されていた。
 すっかり忘れていた。
 諦め悪くも扉に手を掛けてみたが、しっかりと施錠してあった。
 廊下は空調が効いていないせいで、むんとしている。
 僕は額に滲んだ汗を手の甲でぬぐった。

 うちのエアコンが故障した。
 そもそもうちには居間にあるエアコン、一台しかない。その貴重な、虎の子
の、得がたいエアコンが故障した。一週間前になる。
 予兆はあった。
 床に水滴が落ちていたのだ。しかし、最初は取り立てて気にはしなかった。
 そうこうしている内に、夏休みになった。
 受験生にとって夏休みは重要だ。その過ごし方如何が成績に大きく影響す
る。僕は午前中から受験勉強に励むことにした。姉上は不在である。休みにな
った途端、アルバイトに励んでいる。夕方まで戻らない。
 その日も居間で勉強をしていた。少し休憩を取ろうと顔を上げたところで僕は
ぎょっとした。エアコンの吹き出し口から勢いよく水滴が飛び出していたのだ。
床を見ると水溜りが出来ている。慌てて電源を切ると、水の飛び出しは止んだ
ものの、当然、冷風もぴたりと止んだ。締め切った室内の温度がじんわりと上
がる。
 修理に二週間ほど要すると言われ、僕は途方に暮れた。
 真っ昼間の居間は、さながら蒸し風呂だ。窓を開け放っても暑いものは暑
い。むしろ、蝉のやつが僕の耳元でがなり立ててるようで、余計にげんなりし
た。
 今夏は猛暑になるという。天気予報はこんなときに限って的中する。
 この状況下では勉強の効率も低下する。仕方がないので学校の図書室にお
世話になることにした。やっぱり冷房の効いた場所だと勉強もはかどる。
 なのに、です。
 六日間も図書室が使えないなんて酷すぎる。
「どうしようかなあ」
 恨みがましく張り紙を眺めながら呟いた。
 市立図書館までは自転車を使っても優に二十分は掛かる。この炎天下の
下、自転車を漕ぐことを想像するだけでげんなりした。まあでも瀬に腹は変えら
れないか。
「それにしてもあつー……」
 ズボンの後ろポケットをまさぐり、ハンカチを取り出す。首筋をつたう汗を拭き
取ると、いつまでもここで突っ立っている訳にもいかないので、歩き出した。
 今日も雲ひとつない快晴だ。

「よお」
 下駄箱で靴を履き替えていると、背後から声を掛けられた。
 その声に振り返ると、銀八先生だった。
「なんだ。先生か。こんにちは」
「なんだとはなんだ。失礼なやつだなあ」
 力なく返事をする僕を、先生は無遠慮な目付きでじろじろと見た。
「なんですか」
 暑さのせいで沸点が低くなっているのかもしれない。若干苛々しながら訊ね
た。
「なんかお前疲れてねーか」
「そうですかね」
 そうだって。先生はつかつか歩み寄ってきて上から下から眺めてきた。非常
に居心地が悪い。
「それに何ていうか、やつれた? ちゃんと食ってるか? 受験生は体が資本
だろーが」
 銀八先生はふと目敏くなる。いつも自分のクラスの生徒にだって担任とは思
えないぐらい適当なくせに、不意に鋭くなる。何だかんだいいながら皆が銀八
先生のことを慕っているのはこういうところに因ると思う。
 僕は自宅のエアコンが壊れ、現在、流浪の民であることを話した。
「だからこうして涼しい場所を求め、さまよっているんですよ」
「ふうん」
 僕が説明を終えると、先生は興味がなさそうに相槌をうった。何かを期待して
いた訳じゃないけど、あからさまに適当な返事をされるとむっとする。
「まあそういう訳なんで。さよーなら」
 一礼をすると、先生が「ちょっと待てって」と気だるそうなまま白衣のポケット
に手を突っ込んだ。じゃらじゃらと金属が擦れ合う音がする。そして出てきたの
は、何種類もの鍵がぶら下がったキーチェーンだった。
「なんの鍵ですか。そんなにたくさん」
 僕は思わず訊ねた。
「あー。車とか家とか。職員室のロッカーだろ。あと受け持ってた部室の鍵と
か。まー、よーわからん鍵もあるけどな」
 先生は言いながら、ぶら下がっている鍵のなかから一つを取り外した。
「なにやってんですか」
 質問すると、先生はむんずと僕の手首掴んだ。手のひらを上に向けさせられ
ると、「ほらよ」と鍵を握らされた。
「なんですか、これ」
 訳がわからず、先生を見た。
「俺んちの合鍵。困ってるんだろ。なら俺んちで勉強すれば」
「えっ」
 僕はぎょっとした。
「で、でも」
「でもなに」
「だって」
「だってなに」
 先生は憮然とした表情で僕を見る。
「先生の家、行ってもいいんですか」
「この前だって大勢で押しかけてきたじゃねーか。日曜の朝っぱらからきやが
って。俺の安眠を妨害しておいて何を今さら言ってんだあ?」
 それとこれとじゃ全く別問題な気がする。戸惑いながら、先生の顔と鍵とを交
互に見た。
「お前は昼間に勉強する場所に困っているんだろう。俺は、今週の昼間はほと
んど学校だからな。だから、まあ気兼ねなく使え」
 僕が、でも、その、ちょっと、と躊躇していると先生は僕の両肩をぽんぽんと
叩いて、そう言い聞かせるように言った。
 正直に言えば、ありがたい申し出である。でも、色々とまずいんじゃないだろ
うか。
「彼女とか、先生いないんですか」
「いてたら貸してない」
 即答だった。
「そ、そうですか」
 僕は鍵をぎゅっと握り締めた。
「こういうこと、まずくないんですか」
「こういうことって」
「だ、だから、特定の生徒に自分のうちの鍵を渡すとか」
「まあぶっちゃけると、ばれるとちょっとまずい」
 だったら。鍵を返そうとした僕に、先生はにやっと笑った。
「だから内緒な」
「えっ」
「お前は、しっかりと勉強せい」
 ぐりぐりと押さえつけるように僕の頭を撫でて、先生は行ってしまった。
「せんせーーーい」
 スリッパを摺るようにして、先生はのそのそと廊下の向うに去っていく。僕は
きょろきょろと辺りを見回し、人がいないことを確認すると、
「そいじゃああああ、おことばに甘えますんでええええ」
 背中に礼を言った。
 
  







20080723
つづくかもしれない








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