春がきた






「買い物いってきますね」
 寝転がってテレビを見ている銀さんに声をかけ、夕食の買出しに出かけるこ
とにした。玄関で履き物を履いていると、
「ちょっと」と銀さんがやってきた。手にはヘルメットをふたつ持っている。
「送ってやるよ」
 そう言うと僕のヘルメットを投げて寄越した。
「いいんですか」
「おう。そと、暖かいしな」
「ありがとうございます」
 銀さんが靴を履き終えるのを待って、ふたりで外へ出た。
 風のないおだやかな陽気である。銀さんはバイクをとってくると言って、先に
階段を駆け下りていった。
 思えば銀さんのバイクに乗るのは久しぶりだ。長らく乗っていない。理由は単
純である。冬だったからだ。冷たい風をもろに受けて走るのは拷問に近い。そ
れに銀さんは寒がりなのだ。だから冬場、銀さんはバイクにはあまり乗ろうとし
ない。
「おーい。行くぞ」
 銀さんはすでにバイクに跨っていた。
「す、すいません。すぐ行きます」
 一気に階段を駆け下りて、バイクの後ろに跨った。ヘルメットを被ると、銀さ
んが振り返って僕を見た。
「行くぞ」
「はい」
 しかし返事をしたのに動き出そうとしない。不思議に思って「銀さん」と呼びか
けると、
「危ねえだろ。落とされんぞ」
 銀さんは僕の手元を見て言った。僕の両手はぶらんと下に垂れている。「掴
んでろよ」銀さんはそう言って、僕の両手を自分の腰に持っていった。
「行くぞお」
 急発進したバイクに、思わず両手に力を込めて腰にしがみついた。
 冬の間だから、寒いから、乗っていなかったけど、それまでは毎日のように銀
さんの後ろに乗っていたのだ。特別なことじゃない。なのになぜか今少し緊張し
ている。銀さんの背中はこんなに広いものだったか。こんなに温かいものだっ
たか。当たり前すぎて意識したことがなかったものは、少し時間を置いただけ
なのに色を変えてしまう。不可解だ。頬にあたる風はやさしかった。着物の袖
が後ろに流れる。当たり前のものなんてどこにもないことを思い出した。
「ぎんさああああん」
「なんだああ」
「ずっと後ろ乗っけてくださいねええええ」
「なんだってええ」
 僕は背中に言った。銀さんはよく聞こえなかったようだ。だけどそれでよかっ
た。
「風がうるさくて聞こえねえええってええ」
 銀さんが大声で言う。
「だからあああ」
 僕も声を張り上げた。
「春ですねーーーーって言ったんですよおお」
「おお。春だなああああ」
 春だ。春だ。銀さんが連呼する。








20080513
2008年3月頃の通販ペーパーに載せたもの








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