不思議な生き物、可愛い生き物。





 1 かまっ娘倶楽部にて

 帰宅途中、かまっ娘倶楽部のまえを通りかかると、店からちょうど西郷さんが
出てきた。目が合ったので声を掛けようとすると、続いてお客さんが出てきたの
でとどまった。どうやら見送りのようだ。目礼だけして、そのまま通り過ぎること
にした。すると西郷さんは少し慌てた素振りでぱくぱく口を動かした。「ちょっと
待ってて」と伝えているみたいだった。
 西郷さんはお客さんが雑踏にすっかり溶けこんでしまうまで、大きな体を深々
と折り曲げてお辞儀をする。
客商売の鑑のような人だと思いながらしばらく店の脇で待っていると、「待たせ
て悪かったわね」と小走りで戻ってきた。
西郷さんは背丈があり、がっちりした体格なので、見下ろされるとかなり威圧感
がある。
「どうしたんですか」
 圧倒されながらも訊ねた。
「いま仕事帰りなの?」
 「そうですけど」と僕が答えると、西郷さんは笑顔になった。笑顔にも迫力があ
る。
「バイトしてかない? 風邪でひとり休んじゃってねえ。困ってたところなの。お
給料、弾むわよ。パチ恵」
 給料。弾む。魅惑的な言葉だった。
 近ごろやれ不況だの不景気だのと耳にすることが多くなった。もともと依頼は
多くなかったけれど、万事屋も不況のあおりとやらをもろに受けていた。仕事
がない。また家賃が払えないからお登勢さんにどやされる。そんな逼迫した状
態で僕らの給料が払われるわけがなかった。しかし来月に開催されるお通ち
ゃんのコンサートまでには何が何でもお金がいる。渡りに船とはこのことだ。グ
ッズ代や遠征費、何かと入用なのである。
「やります。やらせて頂きます」
 僕は二つ返事で快諾した。
「助かったわ」
 西郷さんがごつい手で口元を押さえながら、嬉しそうにうふふと笑った。
 薄暗い店内に入ると、大音響のなか舞台上ではダンスショーをやっていた。
あず美さんもいる。
舞台に向ってピューピュー口笛を吹くお客、ホールの従業員と盛り上がってい
るお客。店は大盛況だ。
 着替えのため奥の従業員用更衣室に向った。かまっ娘倶楽部は本当のおか
まさんだけじゃなく、僕みたいにアルバイトで女の格好をする人もいるので、貸
衣装と化粧道具が常備してある。
備え付けの大鏡を見ながら手早く化粧をほどこしていく。
 おしろいをつけ、口紅を塗るのもかなり手馴れたものだ。万事屋で働くように
なってからなぜか女の格好をする機会が多い。最初は恥ずかしくて堪らなかっ
たのに、今じゃすっかり慣れてしまった。女物の着物に着替え、おさげ髪のか
つらを被る。
 ホールに戻ると、僕の姿を見とめた西郷さんが近づいてきた。
「あず美のヘルプについて頂戴」
「はい。わかりました」
 ショーは終わり、あず美さんは接客をしていた。
「パチ恵でーす。よろしくお願いしますっ」
 笑顔で自己紹介をしてから、客を真ん中にして座った。
「たまに見かける子だね。まあどんどん飲むといいよ」
「あ、はあ。ありがとうございます」
「若だんな、パチ恵はお子様だから高いお酒の味なんか分かんないわよ。わた
しが頂くわ」
 さっそくお酒を勧められて困っていたら、あず美さんが助け舟を出してくれ
た。
 客は三十台後半、長谷川さんと同じ歳ぐらいだろうか。若いわりに羽振りが
いいのでお店では若だんなと呼ばれていた。
 何度かアルバイトにきた時に見かけたことはあったけれど、こうして接客をす
るのは初めてだった。
 若だんなとあず美さんは高そうなボトルのお酒をどんどん空けていく。その勢
いに圧倒されていたら、若だんなが「一杯ぐらいどうだい」と誘った。
「頂きます」
 僕はちょっとだけ考えて答えた。何度も断っていては場が白けてしまうし、一
杯ぐらいは大丈夫だろう。気遣わしげな表情のあず美さんに向って頷くと、黙っ
てボトルから酒を注ぎ、水割りを作ってくれた。
「男は度胸。女は愛嬌。おかまは最強ですよね。あず美さん」
 僕はグラスを受けとって力強く言い放った。
「勇ましいね」若だんなが笑う。
「パチ恵ったら」仕方ないわねと言いながらあず美さんも笑った。
「パチ恵、飲ませていただきますっ」
 僕は一気に干した。
 途端に喉がかあっと熱くなる。あず美さんがぎょっとした顔で僕を見ている。
若だんなは相変わらず笑っている。
「アンタ、それウイスキーよ。一気なんてして大丈夫なの」
「大丈夫ですよ」
「いいね、いいね、じゃんじゃん飲もう。あず美ちゃんも飲みなよ」
 若だんなは僕の背中をばんばん叩くと、新しいボトルを一本下ろした。
 正直にいうと僕は結構お酒が好きだ。
 銀さんも姉上も自分は大酒のみなのに、僕には飲ませてくれないけれど、お
登勢さんのところで何度か飲んだことがある。体の芯が熱くなってふわふわと
してやたらと気持ちが大きくなったのを覚えている。
 最初は心配そうにしていたあず美さんも、だんだん酔っ払ってきたのか、「パ
チ恵もじゃんじゃん飲みなさいよお」と僕にお酒を注いだ。
 若だんなは結局その後も三本もの高そうなボトルを下ろしてくれて、三人で全
てを飲みきった。
「それじゃあそろそろ帰ろうかな」
 赤ら顔の若だんなが立ち上がる。
 店の外まで見送ろうと立ち上がった瞬間、足がもつれた。誰にも見られてい
ないようなのでほっとする。
「あーざーましたああああ」
「パチ恵ったら呂律が回ってないわよおお。若だんなまた来てね」
「もちろん、また来るよ」
「ありがとうございました」
 あず美さんと一緒にぺこりと頭を下げる。
「うちの子、迷惑掛けなかったかしら」
 いつの間にか西郷さんも出てきていた。
「ぜんぜん。楽しい酒だったよ。じゃあパチ恵ちゃんもまたね」
 ひらひらと手を振って、若だんなは店が呼んでいたらしいタクシーに乗って帰
っていった。あず美さんと僕も車に向って手を振る。そしてその姿が見えなくな
ると西郷さんが僕の肩をやんわりと掴んだ。
「今日はもういいわ。お客もだいぶ引いたから。ありがと。助かったわ。少し休
んでから帰りなさい」
「そうした方がいいわ。パチ恵」
 あず美さんが西郷さんの横からひょっこり顔を出す。
「お疲れ様です。じゃあお言葉に甘えて少しだけ。すみません」
 僕は更衣室に戻ることにした。さっき若だんなを見送ろうと席を立った時に、
よろけた拍子でテーブルの脚に足の親指をぶつけてしまった。完全に酔っ払い
だ。いまは真っ直ぐに歩けない自信がある。
お店はまだ営業時間中なので、あず美さんはふたたびホールへと戻っていっ
た。
「じゃあ少し休ませて貰います」
 西郷さんに断って踵を返したら今度は壁に肩をぶつけてしまった。「大丈夫な
の」心配する西郷さんに「へーきです」と笑った。酔っているせいかあんまり痛さ
を感じない。もつれる足で更衣室に入ると、部屋の隅にある二畳ほどの畳のス
ペースにどさっと寝転がった。
 うつらうつらしていると、扉の開く音が聞こえた。
「あれじゃ苦労するわねえ」
 顔を上げるもの億劫だったので目を瞑ったまま耳だけを傾けた。たぶん西郷
さんの声だ。「あれ」というのは僕のことだろうか。「苦労」って僕のことでいった
い誰が苦労するんだろ。考えようとしたけれど、ふわふわ気持ちがいいし、眠く
もなってきたので、すぐにどうでもよくなった。

 冷たい風と少しの振動を感じて、ふと目を覚ました。
「あれ」
「気がついたか。酔っ払いめ」
 目の前に後頭部があった。銀さんだ。銀さんに背負われている。
「なんでいるんですか」
「なんでって……。西郷のおっさんから電話があったんだよ。お前のこと迎えに
来いって」
「うわ、そうだったんですか。すみません。ありがとうございます」
 恐縮して小声で謝った。
「ほんと信じらんねーな。へべれけになるまで飲むってどんだけだよ」
「いやあ。ついつい」
 気分がよくなってあと一杯、もうあと一杯としているうちにどんどん杯を重ねて
しまったのだ。
「何がついだよ」
 銀さんは前を向いたまま、呆れたようにため息を吐いた。
「でも銀さんだっていっつもよれよれになるまで飲んでるじゃないですかー」
「俺はいいの。大人には飲まなきゃやってらんない夜があるんだよ」
「そんなこと言って、しょっちゅう飲み歩いてるくせに」
「おうおう。悔しかったら早く大きくなってみな」
「なりますよ。大人になんてすぐですよ」僕は銀さんの耳元で言った。
「そうかいそうかい」
 銀さんの肩が小刻みに揺れている。笑ってる。
 ふと周りを見ると、派手なネオンが点るなか、お客を呼び込む水商売の女性
や、酔っ払いがそこらじゅうに闊歩している。かぶき町は夜が深くなってくるほ
どに賑やかになるのだ。
 急に自分の状況に客観的になった。男が男に背負われている姿はきっと間
抜け以外の何者でもない。そう思うと恥ずかしくて居た堪れない気分になってき
た。
「銀さん、僕、自分で歩けるんで下ろしてください」
 背中から降りようともぞもぞ動くと、尻の辺りを支えていた手が片方伸びてき
て、ばしんと頭を叩かれた。
「いたっ」
「馬鹿か。酔っ払いは大人しくしとけよ」
「でも恥ずかしいんですけど」
 頭をさすりながら訴えた。
「お前そんな図々しいこと言える立場かよ。周りは俺らのことなんか見てねー
よ。せいぜい酔っ払った女が男に担がれてるぐらいにしか思わんだろ」
「あそうか」
 指摘されて、よくよく自分の格好を確認すると女のままだ。鬘も被ったまま。
ほっとすると急に気が大きくなって銀さんの首に両手をぎゅっと回した。
「苦しいだろ。殺す気か」
「へへへ。すみませーん」
 銀さんの髪が頬に触れてくすぐったい。
「ったく調子いいやつ。酒くせーし」
 銀さんは文句を言いっぱなしだった。僕はそれをにこにこ笑って聞いた。ぶつ
くさ言われているのになぜか嬉しくてしょうがなかった。しばらくすると万事屋が
見えてきた。安心したのか途端にまた眠くなってきたので欠伸をすると、
「いい根性してるよ。お前は」
 銀さんがため息交じりで言った。

 万事屋はしんと静まり返っていた。
 銀さんの背中から降りて部屋へ行くと蒲団が敷いてあった。掛け蒲団が無造
作にめくれているのを見て、寝ていたのに迎えに来てくれたんだなと申し訳な
い気持ちになった。
「銀さん、ありがとうございます」
 僕はあらためて頭を下げた。
「ほんと感謝しろよ」
 背後にいた銀さんはぶつくさ言いながらも僕の分の蒲団を敷いてくれてい
た。
「じゃあ俺は寝る。お前もとっとと寝ろ」
 さっさと着替えを済ませた銀さんは、寝床にもぐり込み蒲団を被った。
「おやすみなさい」
 僕は電気を消した。寝巻きに着替えるため帯を緩めようとしたら手元がおぼ
つかなかった。だいぶん醒めてきたはずなのにまだ酔っ払っているんだろう
か。指先がふらふらするし、視線はぐらぐらする。もたついていると、
「何やってんだよ」
 銀さんがこっちに体を向け、苛々している口調で訊ねた。
「脱ごうとしてるんですけど」
 帯締めはほどいたものの薄暗いなかで帯が上手くほどけない。
「銀さーん」
「なんだよ」
「ちょっと脱がせてくれませんか」
 面倒になってきたので銀さんに頼んだ。
「お前馬鹿だろ。ぜってー馬鹿だろ。電気つけろよ。そんでも無理ならそのまま
寝ろ」
 銀さんの声がちょっと怒っている。
 そこまで怒らなくてもいいのに。僕は首を傾げ、のっそりと立ち上がって電気
をつけた。銀さんと目が合う。するとふいっと顔をそむけ、また背中を向けてし
まった。
「変な銀さん」
 僕は呟いた。やっとこさ帯をほどき、女物の着物を脱ぐとほっと息を吐いた。



 2 吉原にて

吉原の華やかな表通りを横に一本それると路地裏はひっそりと寂れていた。
年季の入った家屋が並ぶ。人目を憚りながらその一件に入ると、月詠さんは
自警団、百華の着物を数着出してくれた。
鳳仙のもとへ潜入するには百華に身をやつすのが最適だと思われたし、何よ
り花魁の格好では満足に戦えない。
 神楽ちゃんはすごい。花魁の格好でなんなく動き回っていて驚いた。「よく動
けるね」と感心したら、「こういう修行だと思えば楽勝アル」と胸を張った。僕な
んてここに来る途中、何もないところでつまづいた。転びそうになったところを
脇から銀さんが支えてくれて助かったけれど。

 神楽ちゃんは迷わず赤くて丈の短い着物を選んだ。
「なんかそっちの方が動きやすそうだね」
 僕に用意されたのは藍色の丈の長い着物だった。まじまじと見比べている
と、神楽ちゃんが僕の膝を蹴った。
「痛いよ。何すんのさっ」
「交換なんてしてやらないアル。新八はそっちの地味なやつを着てればいいア
ル。お似合いネ」
 神楽ちゃんは自分の着物を抱えると、走り去るようにして向うの部屋へ着替
えに行ってしまった。
 膝をさすっていると、
「お前もさっさと仕度しろ。誰も男のすね毛なんて見たくねーんだよ」
 僕らのやり取りを興味がなさそうに聞いていた銀さんがむっつりと口を開い
た。
「僕はただそっちの方が動きやすそうって言っただけで、短いのがいいなんて
言ってません」
「わかったよ。わかったから早くしろよ」
「はーい」
 花魁のずっしりとした着物を脱ぐと、体が急に軽くなった。

 着替え終わると、神楽ちゃんも戻ってきた。
 部屋を物色していた銀さんがゴムまりほどの大きさの煙玉を見つけてきた。
何かに役立つだろと僕らに二つずつ配る。
 出発のまぎわ、僕は大きく深呼吸をした。何があってもみんなで家に帰るん
だと胸に誓う。
 緊張で少しだけ体が震えた。ぎゅっと拳をにぎると、後ろから銀さんが頭を小
突いてきた。
「縮こまってんじゃねーぞ」
 押し出されるように前につんのめる。反動で胸がゆさっと揺れた。「ひどいで
すよ」僕は銀さんを睨んで、ずれた胸を直した。この大きな煙玉をどうやって持
ち歩こう。さすがに両手で抱えては拙いだろうという意見から、そこに収納して
おく運びとなったのだった。僕らは豊満な胸をゆさゆさと揺らしながら吉原の街
を急ぐ。
「新八ー」銀さんの声に僕は振り返る。
「なんですかー」
「お前さあ、これがぜんぶ片付いたら、当分パチ恵禁止な」
「なんですかそれ」
 問い返したけれど、銀さんは答えようとしなかった。
 とりあえず家に帰ったらゆっくり問いただせばいいか。





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