あいびき






 銀八先生のいうことは一理ある。
 教師と学生の付き合いは世間の倫理から外れているらしい。
 僕の本分は学業であるし、先生の本分は教職である。
 それに加えて、僕は現在高校三年生で目下大学受験をひかえる大事な時期
であり、先生は先生で、そんなムズカシイ時期の生徒を抱える教師であった。
 会いたいと思い、すぐさま行動にうつせないのは致しかたのないことだった。
 ケジメは必要だ。
 朝のチャイムが鳴って、少しして先生が教室に入ってくる。
 起立。礼。着席。
 日直が号令をかける。
「はい。おはようございます。今日はお休みいませんかあ?」
 先生は教卓に出席簿を広げた。
「いませーん」
 僕は言う。
「はいはい。欠席ナシ、と。みなさん元気でなによりです」
 先生は俯いてもごもごと喋りながらペンを走らせる。その間も僕を見ることな
い。慣れた風景だ。
 ぼんやりと窓に映った先生の姿を眺めた。先生は最前列の生徒と何やら談
笑している。教室は朝っぱらから騒々しく、会話までは聞こえない。別に聞きた
いとも思わないけど。
「うるせーぞ。お前ら」
 先生はやる気のない声で注意する。案の定みんな聞く耳を持たない。がやが
やとうるさいままである。
 以前、そんな気だるい注意の仕方じゃあ静かになりませんよと進言したこと
がある。付き合うずっと前だ。多分クラス替えをしてZ組になったばかりの頃で
ある。すると先生は、いい、いい、こういうのは形式美だから、と言った。他の
教師の手前、注意することに意義がある、のだそうだ。そんなものですか、僕
は内心とんでもない教師だと辟易した。
 人生何が起こるかわからない。
 好きになったのは僕だ。
 告白して一度は断られたもののふんぎりがつかず、その後も粘った。粘った
結果、先生は落ちた。
 そして晴れて交際が始まったのだ。
 僕は先生から視線を外し、今度は廊下に目をやった。廊下は無人で、教室
の喧騒とは別世界のように静まり返っている。そこには秋晴れのやわらかい光
が射し込んでいる。よい天気だなあ。
 それなのに本日は国語の授業がない。だからこのままいけば終礼まで先生
と会えない。会えないなんて立派なものじゃない。姿が見られない、という方が
正確だろう。
「じゃあ今日もそれなりに頑張ってくれ」
 先生の声が片隅に聞こえる。引き戸が開く音がして、先生が廊下に出た。出
席簿をぶらぶらさせながら僕の傍を横切る。少し顔を上げるとすれ違う瞬間、
窓越しに先生と目が合った。こういう時はどういう顔をすればいいのだろう。笑
顔かはたまた真面目な顔か。先生は普通の顔をしている。僕があいまいな顔
をしているうちに先生は立ち去った。
 我慢はよくない。
 いつか銀八先生は言った。
 それはとても難しいことです、先生。
 僕はため息をついて、正面を向き直った。
 始業のチャイムが鳴り、廊下の向うから1限目の担当教師が歩いてきた。慌
てて机上に数学の教科書やらノートを用意する。
 神楽ちゃんと沖田くんが席を立って喧嘩をしている。
「先生来るよ」
 僕は二人に声を掛けた。
「勝負は次の休み時間アル」
「のぞむところでい」
 二人が火花を散らしながらもそそくさと着席すると、引き戸が開いて数学教師
が入ってきた。
 今日もつつがない一日が始まる。
 僕は四六時中だって先生にふれたい。


 2限目の、英語の授業を聞いている時ふと疑問がわいた。
 教卓では先生が構文について熱心に説明をしている。僕はそれをノートにと
りながら考えた。先生も僕にふれたいと思うのだろうか。
 銀八先生は時としてグラビアアイドルについて熱弁を揮う。先生は女の子が
好きだ。銀八先生はそういう人だったはずだ。
 なのにどうして僕を受け入れたのだろう。
 それを訊ねるにはわりと勇気がいる。
 嘆息は自然にもれた。
 のたのたと黒板を写していると、先生はさっさとそれを消してしまった。妙に
落ち込んだ。そんな些細な(受験生にとってはとても大事なことですけど)ことで
肩を落とす自分は、やはり世界が狭いなあと思うと更に落ち込んだ。
 僕は高校生なんです。どう逆立ちしたって高校生なんです。
 そして銀八先生は、僕が高校生になるよりも前から先生だ。
 僕たちは相思相愛の相手へふれるのにも理由がいる。
 難儀な人を好きになってしまった。僕は。
 ぼんやりしていると、
「おい」
 声を掛けられた。
 顔を上げると土方くんが立っていた。僕はハッとして周りを見回した。英語教
師がいない。教室がにぎやかだ。
「あれ、授業は」
 呆けた声で訊ねた。
「もう終わったぞ。それより消していいか」
「え」
「黒板。お前ずっと固まってるからよ」
 土方くんは目敏い人だった。僕は謝って急いで黒板の文字を書き写す。
「ありがとう。僕も手伝うよ」
 立ち上がって黒板消しを手に持った。
 土方くんは言葉数が多い方じゃない。僕たちは黙々と黒板をきれいに消して
いく。少しチョークの粉を吸い込んでしまい、むせた。ごほんと咳払いをすると
土方くんが僕を見た。
「具合わるいのか」
「なんで」
「ぼさっとしてるから」
 土方くんの言葉は容赦がない。しかし、確かに、ぼさっとしているので反論の
余地はない。
「具合はいいけど、考えごと」
「ふうん」
 僕が言うと、土方くんは小さく頷いたきり黙って作業を再開した。土方くんは
背が高いので黒板の上の方も難なく届く。そういえば土方くんは銀八先生と同
じぐらいの身長だ。
「色恋沙汰で悩んでんの」
 僕は下の方の文字を消しながら言った。
「ふうん」土方くんはやはり同じように頷くばかりだ。
「土方くんはむずかしい人を好きになったことある?」
 僕は手を動かしながら訊ねた。思えば土方くんは格好良く、クラスの女子に
も、それ以外にも色々と人気があるらしい。何かと経験豊富そうな彼になら、目
からウロコの素晴らしい助言が聞けそうだと思われた。が、一蹴された。
「むずかしいの定義がわからん」
 僕はうっと詰まった。
「あの、たとえば好きになっちゃいけない人とか……」
 説明しながら語尾が段々小さくなっていく。
「ふうん」
 土方くんは相変わらず素っ気無い返事をするばかりだ。
 しかし黒板がすっかり黒々ときれいになった時に土方くんは言った。
「気にしない」
「え、でも、相手の都合とか」
 きっぱりとした言葉に僕は面食らう。
「なんだかんだ言っても結局自分のやり方でしか付き合えない」
 土方くんは僕の手から黒板消しを奪うと、窓際の黒板消しクリーナーを使っ
た。高い吸引音が鳴る。
 僕はそこに突っ立ったまま、クリーナーに向う背中を眺めた。土方くんがもて
るというのが納得できた。
 やがて3限目を知らせるチャイムが響いた。僕はその時間の授業を真剣に聞
いた。学生の本分は学業だ。



 休み時間になると教室を出て、その足でまっすぐ職員室に向った。
「銀八先生はいらっしゃいますか」
 僕は入口で近場の教員に声を掛けた。職員室の扉の外でじっと待つ。しばら
くすると眠そうな顔をした先生が出てきた。僕の姿を見ておやっと目が大きく開
いた。
「どうしたんだ。志村君」
 休み時間の職員室は人の出入りが激しい。先生は何気に廊下の端に寄っ
た。僕も先生にならう。
「あのですね」
 我慢はよくないと先生は言った。
 自分のやり方でしか付き合えない。
 その通りだ。
 理由がないと会えないなら、理由を作るだけだ。
 だって幸い僕の本分は学業で、銀八先生は先生なのだし。
「なんだあ」
 先生は大きく伸びをして欠伸をした。ふわんと銀色の髪がゆれた。あっと思っ
て、ぎゅっと拳を握った。そうして、ふれたい波をやり過ごす。
「先生」
「はいはい」
「あんですね」
「なんでしょう」
「ゆううつってどんな字でしたっけ」
 僕が質問すると、先生は一瞬だけぽかんとしたがすぐに先生の顔に戻った。
「――志村君」
「はい」
「字引きは?」
「忘れました。だって本日は国語の授業がないですし」
 にっこり笑って言った。
 国語の質問すれば公然と会えるんじゃないの、って算段です。
「あ、そう」先生は気の抜けた声で返事した。そしておもむろに口を開いた。
「て、出す」
「え」
「手を出しなさい」
 先生の僕の手を上に向けた。不思議に思いながらもされるがままになる。
「憂鬱は――」
 先生は右の人差し指の腹で僕の掌に文字を書き始めた。びっくりするのと、
こそばゆいのとで手を引こうとすると手首をがっしり掴んで固定された。
「こうで、こうで」
 先生は掌にじっとりと文字を綴っていく。僕は息を凝らしてその自在に動く指
先を見つめた。先生の爪は意外ときれいな形をしていて、深爪だった。僕は息
を吐くのも忘れるほど熱心にその指先だけに集中した。
 ゆううつは字画が多い。ぞわざわとした感覚が続く。先生の指先は温かく、僕
は緊張のために手が汗ばんだ。
「憂鬱なの」
 指先を動かしながら先生が尋ねた。
 僕は首を横に振った。
「そう」
「さっきまで憂鬱だったんですけど、もう大丈夫になりました」
「そうか」
 先生は憂鬱のうつの字に取り掛かった。
「先生」
「ん?」
「――憂鬱って書けるんですね」
「あのね」
 先生は吐いた息が額に掛かった。その間も先生は淀みなく憂鬱を綴ってい
く。
「悩み事があるなら俺に相談しろ」
「はい」
「ひとりで悩むのはよくありません」
「はい」
「そんために先生がいるんだから」
「はい」
 先生の指先が鬱の字の右の部分にある、彡を掌にしゅっしゅっしゅと流れる
ように書いた。くすぐったい。そして、憂鬱の完成だ。
「一丁あがり」先生は言った。
「わかったか?」
 かえすがえす言うけれど僕は先生に四六時中ふれていたい。首を横に振っ
て、むずかしい字ですねとため息をついた。
「だから、もう一回お願いします」
 休み時間はまだ残されている。
「仕方ねえなあ」先生は言って、再び憂鬱を書き出した。





20071008









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